誰かとともに
写真は未草の小林夫婦と、温石とtadokoro galleryの須藤夫婦。この4人の信頼関係はいいな、と感じている。先月久しぶりに彼らと再会。黒姫の森をともに歩いた。ここのところ誰かとともに何かを社会に投げかける時のやりとりってすごく大切だな、と感じている。今日は彼らの信頼関係を感じながら、今思う徒然をば。*未草さんの企画展は2019年にShoka:で開催予定
最近「やりとり」についてよく考えたり、感じたりしている。まあ、生きている限り、喜びも悲劇も全ては人とのやりとりの中からもたらされる。
相手の言わんとしていることを理解しようと言葉だけを追うと、全くもって機能しないのがやりとり。ずーっと前に元家族から「お願い、感じて」といわれたことがあって、その時にはフリーズして思考停止。あの時世界は白く飛んだけれど、今は言わんとしていたことがよくわかる。わかるよう努力している。
すっ飛ばし系の人(わたしを含む)は、舌もよく回るし言葉もとうとうと湧き出してくる。けれどそれが、自分の目的を達成するために使っていると相手の心や感覚を置き去りにしてしまうのだ。いや、相手ばかりではなく、自分の心や感覚も一緒に置き去りにしてしまうこともしばしば。してその、感じるという状態は実際とても面倒だ。だって、痛いことが多いのだもの。
感性が繊細にできていればいるほど、断られたり、すれ違ったりするとヒリヒリしちゃう。大人になって叱られたり、誰かに文句を言われたりしたら、もう骨が砕けるように感じるほど痛いこともあるのかも。きゅーっと悲鳴をあげて、穴を掘って閉じこもり次に出る時には現代の鎧、例えば隙のないファアッションなどで防備して外へ出る、なんてこともある。サングラスとかもありかも。まあ、いろいろあるよね。
いまでも時々、うおーーーーーっと叫びながら穴を掘りたくなることはある。泳げたならば、向こうの岸までクロールで行くだけの原動力はたまに出る。そう、恥ずかしさや悔恨はある意味原動力にもなるのだ。だから、世の中の「ああ〜〜わたしってコミュニケーション下手だわ〜〜」とか「ああ、そんなことを伝えたいんじゃないのに」と泣いている人。「ああ、またごめんと言えずに、相手に突っかかってしまった」と、枕をびしょびしょに濡らしている、私たちよ。大丈夫大丈夫。それはいつか誰かと手をつなぐ原動力になるのよ、きっと。
あとね、頭でっかちの人って心や感覚から頭が独立している人のことをいうのだと思うのだけど、そんな人は(わたしもそこに傾きがちよ)もめた原因が言葉尻だと思ってその誤解を解こうとこうとするんだけど、全くもってこじらせるだけ。こちらは一緒に過ごした後の後味の悪さが溜まって溜まって、うまく説明できずにその時の言葉になっただけだから。言葉を追うと、相手の心からは離れて行くよ。やっぱこの人とはだめだわい、と。
だから、ね。大事なことは誰かと久しぶりに会ってその再会とその人との今後に前向きだったら、また会えて嬉しい、ということを態度と言葉で表現するのが礼儀。そんなことが最近一番のトピック。
誰かとともに歩きたいなら、未熟な自分も相手に開示してよろよろしながらも、「会えて嬉しい」を言葉にしたり態度で示したり、を繰り返せたらいいのよね。
じたばたしましょ。今のわたしのできる限りの手土産の知恵。