あなたの背中
忍野八海出口池の桜の老木。はたして桜に雌雄はあるのだろうか?地衣類に覆われたこの老木の肌。雨に濡れて瑞々しい姿は、美しく、逞しい。ただそれでいい。
二人旅。雨の富士山麓は靄が立ち込め、景色は秋雨に濡れて全ての境界線は朧。観光地には外国語が飛び交い、ここがどこなのか朧。沖縄を出るときは30度だった気温は富士山麓では2度で、日本の季節が秋なのか初冬なのか、いや、未だに晩夏だったような、と季節の境界線もまた朧。
さて、そんなそぼ濡れながらの旅の朝。温泉の朝風呂をたのしみにしていた私は、眼が覚めるといそいそと河口湖が見えるという屋上の風呂へ。昨夜は大きくて脚の長い4人の外国の人たちが湯船を占領していて私を挟んで大声でやりとり。なんとも肩身が狭かったため早朝6時ならば誰もいないだろうと嬉しくてなおいそいそと。
湖上風呂へ着くとやはり誰もいなかった。2秒で浴衣を剥ぎ捨てると、瞬く間に身体を洗い露天へ。湯船に身体を任せる快感にしばし痺れる。ああ、冷たい小雨に濡れながらの温泉はなんとも贅沢。河口湖を眺めようときょろきょろするが目隠しがぐるりと取り囲んでいて湯船の中からだと見えない。まあ、いい。心に湖と富士を思い描こう。日本人だもの。目を閉じて3分。私は茹だった。長湯ができない温泉好きは温泉地で時間を持て余すという悲哀。癒しの時間が3分。間に湯冷ましを挟んでもせいぜい30分が限度。
さあ今日も、湯冷ましのシャワーを浴びて、室内の檜風呂に入ろうか。と、室内に戻ると誰かがシャワーを浴びている。その背中に釘付けになった。広い肩幅、浅黒く焼けた肌、筋肉質でウエストのくびれは無し…。こ、これは男性の後ろ姿ではなかろうか?私はもう一度その背中をまじまじと見た。シルバーグレーの短髪、引き締まった背中、曇った鏡には顔も胸ももやもや霞。私の近眼では、もはやここまでしか詮索叶わず。昨日の脚の長い外国の人々の肌の色に似ている。彼女たちの家族に違いない。もしかしてパパ?
私は檜風呂に入るのを諦めて着替え室にさっと逃げるように入ると、ひょっこり頭を出してもう一度その背中を見た。かのひとがシャワーで頭を流すたびに肩甲骨の筋肉がもりもり動いている…女性の柔らかい背中じゃないな。暖簾を見に行くと赤い色で「女湯」うさぎのマーク付き。私が間違って男風呂に入ったわけではなさそうだ。昨日の夜はここは男湯だった。温泉でよくある、男女入れ替え制のアレである。あの背中の人は風呂好きせっかちさんで、日本文化圏外から来たので色や字では分からなかったに違いない。イノシシのように目的地にまっすぐ、昨日入った風呂こそ我が風呂と飛び込んだのね。
檜風呂が諦めきれず、私はもう一度風呂場のあの背中をヒョイっと覗き込む。するとかがみ込んだ背中が頭を上げて人になり、私に気づいて振り返った。途端に私は頭を引っ込め逃げるように着替え室の棚に移動。心臓ばくばく。して、着替えようとカゴの中を見たらタオルを忘れてたことに気づき、濡れたまま浴衣を着る。身体はすでに冷えていて肩を落としてよろよろと大浴場を出た。
「すみません、あのー。ここ女湯なんですが間違えていませんか?」
「エクスキューズミー、イッツ温泉フォーレイディ」
小声でぶつぶつと呟きながら部屋へ帰った。
朝ごはんの時、隣のテーブルに遅れてやって来たご夫婦。大きなサイズの西洋人の旦那さま、がっしりとした東洋人の奥様。奥様シルバーグレーのショートカット、テニス焼けのような浅黒い肌。二人はフランス語でお話ししてた。最初は気づかなかったけれど、彼女が向こうに体をひねった時の背中の形を見た途端、アイ アンダストゥド。
なるほど。なるほど。なるほどね。言わなくてよかったんだ。「あのーここ女風呂ですよ」って。「イッツフォーレイディズ」って。小心者の私のままですり抜けたレッドカード。
帰りのバスの中で私は考えた。今度そんなことがあったら、どうしようか、と。
そうだ、「おはようございます」と言えばいい。こんにちは、でも今晩はでもいい。返答の声を聞いたら性別はわかるはず。きっとわかるはず。
「Hello」「こんにちは」「コンバンハ」
天気・季節・景色・性別・色々朧な旅であった。
ただいまTOKYO。