暮らしの中の旅日記 「環」木彫作家クロヌマタカトシの表現
私は動物がとても好きだ。多種多様な彼らを見ているとこの世は奇跡だと感じる。
どうして人間の側に犬がいるのか、猫はどうしてこんなにも追いかけ愛でたくなるのか?自然の中の動物の力強さと存在の不思議。
この辺はもう語ると長くなるし、しつこくて嫌われるだろう。ぐっと抑えて言うと。
彼らを思う時、私や人間という存在の不思議さ、その全体が一つになっている自然の深遠さを感じてしまう。生態系と一言で言うけれど、ものすごい奇跡のようなバランスが種を保全しているのだから、弱肉強食という言葉はなんとも人間の浅はかさが生み出したちっぽけな言葉だと感じてしまう。実際は究極の調和の姿がこの地球上の動植物や微生物、鉱物全ての存在で保たれているのだ。
ものすごい勢いで崩れていっているようなニュースが飛び交っている。が、私は自然の根源的力を信じていた。本物のドードーに会えることはないとわかってはいても。とっても会ってみたいけれど。
彼の作品を見ていると、私たちが「一つに繋がっていた存在の詩」を感じる。
私はそれを忘れたくないし、そこに根を下ろして生きていたい。そんな思いが私の中にあるから、クロヌマタカトシ氏の作品に出会った時、私はとてもとても嬉しかった。小躍りしたいのをぐっとこらえて挨拶をしたものだ。
木彫作家クロヌマタカトシ氏の経歴が好きだ。彼は普通のお勤めをしている両親のもとに生まれた。アートに惹かれ、その道を歩きたいと常々感じていたが、親戚や周りにも芸術的なことを職業にしている人はいなかったため、それは誰しも憧れる単なる夢であって、それで生活することは無理だと自分に言い聞かせたのだという。
両親に相談することができず大学は理工系へ進んだ。しかし心の中から湧き上がる情熱に抗えず、ついに彼は大学を中退。両親にクリエイティブな方向へ進みたいと伝えた。そして進んだのが建築設計関係の専門学校。どこかでクリエイティビティと生活を両立させることを考えて選択したのだろう。
専門学校を卒業し、ある建築会社へ就職。そこで任された現場監督。
手を動かすというより建築家が設計した図面通りに施工に関わる職人さんたちが仕事をするよう管理する仕事が主だったという。そこでも彼は違和感を感じた。施工主、設計者、施工に携わる人々、皆ゴールへの思いがバラバラなまま業務だけが進んで行く。
現代社会でありがちな、皆が違和感を感じながらも図面や取説、ルールに沿って色々なものが作られてゆく。そこにかけているものはなんだろう。どうしてそこに自分は居たくないのだろうか?では何を求めているのだろうか?と。当時の彼はそんな風に感じていたのではないだろうか。
現場に落ちて居た端材を拾い、彼は最初の木彫を製作した。23才の時である。
この写真の狼の木彫は、彼が木彫を始めた初期の作品(個人蔵)。
それがきっかけとなって、彼は木彫作家の道を歩くことを決断。
生活できるだろうか?本当に自分に才能があるのだろうか?芸大も出ず、専門的な知識のない自分は彫刻家という名前はかたれない、そう思い「木彫作家」という呼び名を自分の肩書きとした。2011年に初個展。
彼の作品は2012年の松本クラフトフェアで見たのが最初だ。
大勢の作り手たちが参加していたその年の展示の中で、私には彼の作品がいまもずっと印象に残っている。
爽やかな風と、意外にも直射日光が強い松本の初夏の陽射しのもと、たくさんの作り手たちが参加しているクラフトフェアは多くの人々が押し寄せ活気にあふれていた。
その時展示していたのはカトラリーが7割、動物の木彫作品が3割弱くらい。
そしてそこには一頭の羊がいた。私は牡羊座なので羊贔屓だ。毛が役に立つし、牧歌的で見た目も可愛いではないか。なので、いい羊がいることに内心「居た~~!」となってどきどきしたものだ。何頭かいたのかもしれないけれど、私はその中の一頭に惚れたのだ。
なんども行ったり来たりしたあと、思い切って聞いてみた。
「すみません、この羊はいくらでしょうか?」
「これはもう買い手が決まっているのです」
「そうか・・・・残念です・・・注文することはできますか?」
「まったく同じものは作れません。その時によって印象が変わってゆくので」
「そうですか・・・」
彼は淡々としていて、そっけなかった。南国の人なつっこさに慣れている私は、少しさみしく感じながらも彼の持っている世界観に惹かれた。羊は諦めたのだけれど、いつかこの人の作品を買おうと心に決めた。
店構えもよかった。すでに個性が固まっているようにまとまりを感じた。核があってそこから広がってゆく可能性を感じ、わくわくしたものだ。名刺を交換したのだろう、そのあと彼は私が松本クラフトフェアを回ったあとに書いたエッセイを読んでくれて、暖かいメッセージを送ってくれた。
「何かを読んで涙を流したことはあまりないのですが、涙が出てきました」と。
当時の私の旅日記からの引用。
『(2012年5月松本クラフトフェアにて撮影した写真。クロヌマタカトシ氏の羊)
人はなぜものを作るのだろうか?
必要な生活道具だけではなく、暮らしの中での心のよりどころのようなものも、私たちは求めているのだ。
日常の暮らしの中で起こる小さな旅、そこへいざなう象徴を。
木彫りの羊を見て、まるで生きているようだと感じた。
面白いことに、時に実写生のあまりに強いものには入り込む余地がなく、作り手の技術だけが誇らしげに見えてしまうことがある。
が、抽象性というのは、見る人が入り込む余地が余すところにあり、間口が広く、答えも出口も無いもので、深遠さが感じられる。
羊さんもうさぎさんたちも、木の彫刻なのだと分かってはいても、生きているぬくもりが伝わってくる。
この小さな木彫りの動物たちの後ろに見える景色は、きっと人によっていろいろで、この小さなサイズを超えて広がるだろう。』
現在の私と使う言葉は違うけれど、言いたいことは一緒だ、むしろこの当時の方が頭が良かったのかもしれない・・・とも感じる。
当時の記事「暮らしの中の旅日記 Ⅰ」
木で作られるものは好きだ。テーブル、椅子、机、カトラリー、木皿、木べら、大小いろいろなスプーンたち。使用目的があるものばかり揃えがちだけれど、たまに強烈に欲しくなるものがある。手を使って使う道具ではないけれど、鑑賞することで生活の中に風が吹くもの。音楽のように心を動かし、時に溶かしてしまうもの。染み渡る何かを持っているもの。
生活空間の中に在るだけで、その空間が変化するもの。
彼の作品の中に私はそれを感じた。
惹きつけられてじっとみていると意識のなかにに染み込んでくる、というのだろうか。
じわじわと無意識の中に何かが流れ込んできて、その存在にチャンネルを合わせて「これは一体何だろう?」と考えてみたくなる。
*2016年夏、西荻窪にあるギャラリー水の空での企画展「浮遊」にて。FRP(繊維強化プラスティック)を使って表現するナカオタカシ氏との二人展。
2010年に初めて木彫での製作を始めて6年。
最近の作品には力強さを、背景には深遠さを感じる。
「二つの製作方法があります。一つは僕の中にあるイメージを表現するために製剤を使って表現するもの。それは山頂に向かって歩いて行く山登りのような作業です。もう一つは惹きつけられて拾ってきた流木を使うときの表現で、これはあるとき一気に流木の持っている景色が見えてくるときがあるのです。それが生き生きとしているうちに、手を動かし一気に仕上げる製作。これは僕一人で生み出す仕事を超えていて、自然と一緒に作り上げて行くような臨場感をもっています。 2016年11月 クロヌマタカトシ」
この記事は2016年11月にShoka:で行われたクロヌマタカトシ企画展「環」に向けて書いた記事になっています。