スローランナー2017
脱三日坊主1日目。
昨日がスロージョギングを初めて3日目だった。「三日坊主」という言葉は、さすが人間の起源から何百万年の歴史を経ての人間観察の結果できただけある。この壁を乗り越えるのは難解。今朝ワタシはかなりごねていた。「私」の為に時間やエネルギーを注ぐことは喜びにつながるはずだ。けれど、ワタシはものぐさなまけもの。できたら飽きるまでベッドの上でごろごろとスマホでニュースを流し読みしたり、ゲームをしたりしていたい。
ジャイちゃんの「朝ごはんコール」に負けてベッドから出てキッチンへ行くと「やっぱり今日も走るべき?」と自問し、7時を過ぎた朝日の強さにひるんで、「日に焼けちゃうなあ」と決意は45度まで傾いていた。
その後、そうだこれは三日坊主の呪いに違いないと意を決してシャワー。ささっと済ますとジョギング用の格好に着替える。ソックスを履いていると、ふと今朝読んだスロージョギングの記事を思い出した。走る20〜30分前にコーヒーを飲むと脂肪の燃焼率が上がるらしい。これは外せないぞ。コーヒーマシーンをセットして、ついデスクに座った。
そこには昨晩途中まで見た「ブレードランナー オリジナル版」が待っていたのであった。
熱いコーヒーを飲みながら、なんとなくみはじめてしまった映画の続き。なんて悲哀に満ちた映像なのだろう。35年経った今でもその世界観を表す映像は斬新で魅力的だ。レプリカントの短い寿命ゆえの葛藤。俳優たちの個性と演技の中にかいま見える本質的な姿。「私たちはどこから来て、どこへ行くのだろう」この問いかけにレプリカントと人間の違いはない。彼らが抱えた生命に対する執着。生きている証としての記憶や思い出をかき集める為に古い写真の収集癖があるという設定がなんともリアル。原作者のフィリップ・K・ディックの描く世界は、SFというジャンルにありながら、月の上でも、未来の世界でも、いつでもどこでも人間の根源的な葛藤を描いているのが特徴だ。すごくすごく感覚感情的にズーンとくるような描写が端々に描かれている。
今回デッカードの部屋に置いてあるピアノの様子が気になった。古い肖像写真がいくつも並べられている。2019年の設定なのに、どう見ても20世紀初めの頃のような肖像写真も混じっているのだ。レプリカントのあの悲しい習性と彼の部屋の景色が重なった。も、もしかして35年前に見たときには気がつかなかったけれど、デッカードはもしかして、もしかして・・・レプリカントなのかも。
見終わった後、しばらく私は映画の世界の中を漂っていた。マイショートメモリーをリバースしながら、あのユニコーンや、羊?ブレードランナーの監視役の役人が象徴的に置いていった折り紙のメッセージは一体なんだろうか・・と考える。私の住んでいる2017年の現実世界の朝日に輝く景色は消え、2019年の夜の世界を意識は漂う。濡れていて、びちゃびちゃで、暗くって、まるで人間の闇のような世界に沈む。
ふと、amazonプライムの画面下を見ると、もうすぐ公開されるブレードランナーの新作「ブレードランナー2049」の予告編。クリック。
なんとそれは予告編ではなくて、「ブレードランナー ブラックアウト 2022」というアニメーションフィルムなのだった。みはじめたのだが、気分が違った。すっと私は立ち上がり、ジャイちゃんのリードと、iPhoneと小銭の入ったポーチを腰に装着。スロージョギングをスタート。
40分ほど走って、後もう少しの帰り道の上り坂にて力尽きウオーキングに切り替えて完了。
一体何が私を動かしたのか、それは大きな力ではなく、当然至極のような静かな作用のようであった。何はともあれこうして三日坊主だけは免れた。
さて、明日はどうしたものか。
「私」の為にワタシをどう説得したものか。しかもこの説得しているのは「私」?それとも、「私」とワタシの間をとりもつ「わたし」?
当たり前の顔をした「私」の世界は今日もラビリンス。明日は明日の風が吹く。